この芝居の登場人物は5人だけ。俳優の父ジェイムズ(津賀山正種)と、妻であり母であるメアリー(三田和代)、放蕩を繰り返す長男ジェイミー(浅野和之)と、肺結核に冒されている弟エドマンド(ユージン・オニール自身だといわれている)(段田安則)、それにメイドのキャサリン(野々村のん)、この五人のある夏の日の朝から深夜までの姿を描いてるこの芝居。
ノーカットで上演すれば5時間はかかろうという超大作を、今回は、3時間30分にカットしての上演。
見終わって初めて、タイトルの「夜への長い旅路」って言葉がしみてくる。
別に、ほんとに長いってわけじゃなくて、この一日に起こるいろんなことが、まるで、古典劇の「三単一の法則」にのっとって、蕩々と流れていく。
古典劇って言ったけど、この芝居の登場人物は、みんな「神話」に登場する人物のように、身の丈がとっても大きい。象徴的な意味を背負ってきてるっていうか。オニールの芝居は「リアリズム」演劇ってことになってるけど、彼は詩人だから、リアルなものを書こうとしても、どんどん詩的なものに昇華させていってしまうんだろうな。今回の上演もとってもそうだった。そして、オニールのそんな一面を、きっちり舞台に表してた栗山民也さんの演出はとってもよかった。
この一日に何が起きるかっていうと、まず、2ヶ月前にモルヒネ中毒の治療のための入院から帰ってきたメアリーが、またモルヒネに手を出してしまう。それから、このところずっと具合が悪くて、結核かもしれないと心配されてるエドマンドが、父と兄と病院に行って、結核の診断を受けて、サナトリウムに入ることが決定する。
大きな流れは、まあ、それぐらいなんだけど、その間に、なぜ、メアリーがモルヒネ中毒になったかってことがどんどん明らかになったり(過去の説明だけじゃなくて、今現在のいたたまれなさとして提示される)、ジェイムズがかつてはアメリカで五本の指に入る若手俳優だったのに、今は倹約家で、そのくせ土地を買っては騙されてばかりいる、言ってみれば「俗物」になってしまったことがわかったり、エドマンドが子供の頃に死んだ「ユージン」って子のかわりに生まれた子で、メアリーはそのことを後悔してるとか、まあ、ものすごい「どろどろした」現実が盛り込まれてくる。
これは、家族の話なんだと。見始めてすぐ思った。
オニールが自分の家族のことを書いた、演劇史上最高の自伝劇といわれてるこの舞台。
普通だったら、こんな、どろどろした家族の話なんて、見てられない気がするんだけど、なぜか全然平気なんだ。
それはなんでだろうと考えたら、この家族の家族としてのあり方なんだって気が付いた。
ここに登場する四人は、みんなお互いのことを憎んだりうとましく思ったりしてて、罵りあったりもするんだけど、でも、絶対に、バラバラにはなってかない。なんとか、まとまろうとしてる。そこが切ない。
今だったら、部屋にとじこもったきりになったり、出て行ったり、テレビを見てれば、家族の間のコミュニケーションなんて、別にいらない。
でも、一幕で、メアリーが一人で二階に上がると、それまで言い争いをしていた残りの三人(ジェイムズとジェイミーとエドマンド)は、顔を見合わせて、「なぜ一人にさせるんだ!」ってメアリーのことを心配して、今度はそのことで言い争いを始める。
みんながみんな、お互いのことを好きになりたいと思ってるのに、どうにもならない。
メアリーがモルヒネ中毒になったのは、エドマンドを生んだ後の産後の肥立ちが悪かったとき、医者に処方されたのがきっかけ。だから、メアリーはエドマンドを生まなきゃよかったと思ってるし、そんな医者を紹介したジェイムズをみんなはうらんでる。でも、ユジーンが死んだのは、メアリーがジェイムズの巡業についていった時に、母親にジェイミーとユジーンを預けたからで、はしかが治ってないジェイミーは、いいつけを聞かないでユジーンに部屋に入ってしまったせい。メアリーはそのことをものすごく後悔してる。
小劇場に大きく張り出した舞台にななめにのしかかる大きな天井。
二階はこの天井の上ってことになってるんだけど、この天井の使い方がとってもよかった。
二階には、メアリーがジェイムズと一緒には眠れないって言って、一人で寝る空き部屋があるんだけど、彼女は、そこでモルヒネの注射をしてる。
一幕の終わりで、メアリーは、男たちを外に追い出す。エドマンドの診察のため、病院に行かせるんだけど。一人残ったメアリーはこう言う。「どうしてみんな行ってしまうの? 嘘、私が追い出したくせに。でも、どうしてこんなに淋しいのかしら?」そう言って、一人階段を上って行く。
二幕の大詰め。町の薬屋で、リューマチの痛み止めだと言って、モルヒネを処方してもらったメアリーはどんどんモルヒネを打ってって、わけがわからなくなってる。
一階で言い合いをしているジェイムズとエドマンドがふっとやめて、上を見上げて言う。「また歩いてる」。次の瞬間、ものすごく静かな音楽が流れてくる。それまで何度も劇中に流れてた曲なんだけど、「メアリーの足音」としてこんなに静かな曲を使う、栗山さんのセンスはとってもすばらしい。
そして、上を見上げている二人の男。のしかかるように大きな天井。僕はぼろぼろになってしまった。
メアリーを演じてる三田和代さんは、大好きな女優さんだ。前にもどこかで書いたかも知れないけど、彼女が劇団四季にいた頃から、ずっと見てる。
初めて見たのは、アンドレ・シェルバン演出の「かもめ」のマーシャ。びっくりした。まるで「黒豹」みたいなマーシャだったから。ただの、黒い服ばかり着てる陰気な女じゃなくて、なんかこうむちゃくちゃ「攻撃的」っていうか、今の自分にいらついてるっていうか、とにかく、「ものすごい」マーシャだった。アンドレ・シェルバンの演出は、「かもめ」の喜劇的な側面を強調したものだったけど、その中でこのマーシャの存在は、とっても大きかった。
それから、「エレファントマン」のケンドール夫人。「ハムレット」のオフィーリア。「オンディーヌ」や「フェードル」のタイトルロール。アヌイの「アルデールまたは聖女」の小間使い。四季をやめてから後の、「ナイトマザー」「がめつい奴」「紙屋町さくらホテル」「国語元年」「頭痛肩こり樋口一葉」「にごり江」のお関。細川俊之さんとやってた「ラヴ・レターズ」。
三田和代さんの芝居(演技)は、いつも、僕をびっくりさせる。
むちゃくちゃ、体が生きてる。そんなかんじ。
三田さんのセリフがすばらしいことは、定評のあるところだけど(ていうか、彼女にとっては当たり前のことなんだ)、今日、僕は、彼女のセリフよりもその体にびっくりして帰ってきた。
冒頭の朝の場面、とっても陽気なメアリーは、実はこっそりモルヒネの注射を打ってるせいなんだけど、そのはしゃぎかたの「異常な」かんじがただごとじゃない。
こういう翻訳劇の場合、たぶん、先にどれだけセリフをちゃんとしゃべるかってことがあって、それから、そのセリフにどう体をついていかせるかってことを考えるんだと思うんだけど、この三田さんのメアリーは、まず体なんだ。ものすごい躁状態でしゃべりまくってるんだけど、一瞬たりともじっとしてない。別に、動き回ってるってわけじゃないんだけど、とにかく止まらない。しかも、その間に、自分が「躁状態」でいることをなんとか隠そうとしたり、家族の一言に傷ついたり、感情の流れも一瞬たりとも停滞してない。もしかすると、この二つを一緒にやることはできるかもしれないけど、三田さんは、この体が一歩先に行ってしまってるかんじがとんでもなかった。セリフの先に行ってしまってるし、彼女の意識の先に行ってしまってるし、何より、見ている僕たち観客の先を行ってしまってる。僕は、あんまりすごいんで、三田さんのそんな体のありよう自体に、冒頭からすっかりノックアウトされてしまった。
二幕のあたま。男達の留守中に女中のキャサリンと二人でドライブに行って、モルヒネを買って来たメアリー。この場面は、三田さんの独壇場だ。すごかった。もう、すごいとしか言えない。
終幕の真夜中の場面。どんどんモルヒネを打ってしまったメアリーは、修道女学校時代の制服を着て、階段から下りてくる。ジェイムズとの結婚式で来た花嫁衣装をひきずりながら。メアリーは、女学生の頃の彼女になってしまっている。まだ、ジェイムズと会う前の。「私は尼になりたいんです」と見えない修道院長に訴える彼女は、ほんとに女学生だった。
これは、かなりデリケートな場面で、演じる人によっては、ものすごく醜悪なグロテスクなものになるかもしれない。作者もそれを望んだのかもしれない。でも、三田さんのメアリーは、ほんとに「なってしまって」いる。清らかな少女に。この陰惨な芝居の一番最後に、切なく美しい彼女を登場させた栗山さんの演出は、ここでもとってもすばらしい。
僕は、階段の上にメアリーが登場した途端、声を出して泣きそうになってしまって(そんなことめったにないんだけど)、それから、三田さんの芝居をみているうちに、十数年前に見た彼女の「オンディーヌ」を思い出した。
すっかり人間の世界になじんでしまった水の精オンディーヌが誓いを破った夫ハンスが死んでしまった後、「オンディーヌ」と三回呼ばれて、すべての記憶をなくしてしまう。その後の三田さんのオンディーヌを、僕は、また見ているような気がした。
最愛のハンスの遺体を見ても誰だかわからない、「きれいな人。動かないけど、死んでるの?」と尋ねて「そうだ、死んでいる」と答えられると「惜しいわ。生きていたら、きっと、好きになっていたでしょうに」と言って、何の未練もなく水界へ去っていくオンディーヌ。
とっても懐かしかったし、とっても嬉しかった。
何十年経っても同じ役をやり続ける女優さんたちとは違って、三田さんは無茶な芝居はしてない。でも、こうして、同じ様な役で(そう思うのは僕だけか?)やっぱり昔と同じ輝きを見せてくれる。なんてステキなんだろう。
カーテンコールは一回で終わってしまって、僕は、こんなすごい芝居に(もちろん、いくつか難はあるんだよ。津賀山さんと浅野さんは時々何言ってるかわからないとか、でも、そんなの帳消しだ)ただ拍手することしかできないのが、とってもくやしかった。
今日は、千穐楽。何とか、も一度と思ってたんだけど、行けそうにない。
それにしても、僕は、この舞台を当日券のZ席1500円で見てる。
ものすごい1500円だった。
新国立劇場、さすが「国立」の面目躍如ってところだ。
ああ、もう一度、言いたい。
三田和代さん、素晴らしかった。最高だ。
僕は、尊敬する俳優、この人みたいになりたい俳優さんって、ほんとにいないんだけど(例外はイギリスのアンソニー・シャーとかね)、三田さんのようにはなりたいと思ってる。
僕も、いいトシの取り方をして、いい芝居にめぐりあいたい。ほんと、そう思った。
★★★★★+★!